越前若狭歴史回廊

 朝倉氏年表 その1

 

建武四年 3 朝倉広景、足利(斯波)高経に従い但馬より越前に入国、新田義貞ら南朝軍と戦う。黒丸城に居城する。
康永元年 - 朝倉氏足羽郡安居に弘祥寺を創建
延文二年 12 朝倉高景に足羽庄預所職が宛がわれる
貞治五年 8 貞治の政変で足利(斯波)高経が越前守護職を失い、京三条高倉の屋敷を自焼し越前に下る
11 朝倉氏越前で7ヶ所の地頭職を得るという
貞治六年 7 足利(斯波)高経杣山で没、翌月斯波義将上洛、後に越中守護還付される
康暦元年 5 康暦の政変で斯波義将管領となる
7 斯波義将、畠山氏と守護職を交換し、再び越前守護となる
応永一七年 5 斯波義将没
応永二七年 9 甲斐祐徳没し将久(常治)が越前守護代を継承
享徳元 9 斯波義健が没し、斯波氏の家督を大野の庶流斯波義敏が継承
長禄元 9 越前守護斯波義敏と守護代甲斐将久が対立。
長禄二 7 越前国内守護派と守護代派で合戦(長禄合戦)始まる。朝倉氏、 守護代甲斐方として戦う。
長禄三 5 越前守護斯波義敏が守護代甲斐氏の敦賀城を攻めるが敗北、将軍義将が義敏の家督剥奪
8 和田合戦、越前国内の長禄合戦は朝倉氏の奮闘で守護代方勝利で終息
寛正二 9 斯波義廉(渋川氏息)が、斯波氏の家督継承
文正元年 7 斯波義廉の家督が剥奪され、赦免された義敏が家督となる
  9 文正の政変。斯波義敏没落、再び義廉が家督となる。
応仁元 1 斯波義廉、畠山政長に代わり、管領就任
  1 上御霊社の戦い起こる(後の応仁の乱の前哨戦)、朝倉孝景、斯波義廉軍の一員として畠山義就軍(西軍)に加わり参戦、前管令畠山政長を攻撃
  5 細川勝元・斯波義敏・畠山政長(東軍)と山名宗全・斯波義廉・畠山義就(西軍)の戦い本格化(応仁の乱)、越前守護代甲斐氏と朝倉氏は西軍で活躍
5 斯波義敏越前に下国し、西軍の甲斐氏、朝倉氏を圧迫
応仁2 7 西軍派の斯波義廉、幕府管令職解任される(越前・尾張・遠江守護職も解任され斯波義敏に還付)
  閏10 朝倉孝景が、京に子の氏景を残して越前に下国
文明三 5 朝倉孝景が、西軍より東軍に寝返る(甲斐氏に代わり越前守護代となる)
7 蓮如、越前に進出し吉崎道場を建設する。
  7 朝倉孝景、甲斐氏と河俣(鯖江)にて戦う、惨敗を喫す
8 朝倉孝景、甲斐氏と新庄(鯖江)に戦う、甲斐氏に勝利
文明四 8 朝倉氏、甲斐方の府中守護所を落とす。
文明五 8 甲斐氏、細呂木に朝倉氏を破る。
文明六 1 朝倉氏、甲斐氏を杣山城に破る。
閏5 朝倉氏、波着寺(成願寺山)・岡保で甲斐氏と戦闘(大畔畷の決戦)、甲斐派の有力武将を討ち取る
文明七 2 甲斐氏が幕府(東軍)に帰順し、守護斯波義敏嫡男義良とともに幕府出士するも、幕府、甲斐氏に遠江守護代を認めるも越前守護代は認めず、朝倉支配を追認
2 朝倉氏、大野郡の二宮氏を攻撃
4 守護斯波義敏、反朝倉を固め二宮氏の土橋城に入城
  8 蓮如、吉崎を退去し、海路小浜に向かう
12 朝倉氏、二宮氏の土橋城を落とし、越前押領の基礎を固める。守護斯波義敏朝倉氏に守られ上洛
文明十一 11 守護斯波氏(義良)、「朝倉退治」を掲げ、甲斐氏、二宮氏を引きつれ越前に入国
文明十二 7 甲斐氏、坂井郡で朝倉氏を破る、翌月朝倉氏反撃
文明十三 7 朝倉孝景没し、氏景(戦国二代)嗣ぐ。
9 守護斯波氏、甲斐氏ら、敗れて加賀に退く
10 朝倉氏、新守護に斯波武衛家に代わり斯波(鞍谷)義俊(斯波義廉息、後の鞍谷氏)を推戴する
(幕府、斯波武衛家とも非公認)

朝倉氏年表その2へ続く

 

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